Tokyo International Clinic

東京散歩TOKYO WALK

東京周辺のさまざまな散歩ルートをご紹介する「東京散歩」。

今回は江戸から明治、大正、昭和、平成に伝わる東京下町を散策。
庶民の舌を楽しませた名店、娯楽の殿堂はいまも確かに残っています。
秋の1日、ぜひ下町情緒を楽しんでください。

今回のお散歩データ

  • 総距離=約4.0km
  • 所要時間=約1.5時間(庭園内、施設内を除く)
  • 参考歩数=約10,000歩
  • 高低差=全体に平坦
  • 1茅場町(地下鉄茅場町駅)
  • 2水天宮
  • 3親子丼発祥の店「玉ひで」
  • 4甘酒横丁
  • 5明治座
  • 6清洲橋
  • 7清澄庭園
  • 8深川江戸資料館
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1
茅場町(地下鉄茅場町駅)

正式な町名は「日本橋茅場町」といいます。この界隈の町名は、正式には「日本橋〇〇町」というのですが、昔は「日本橋」は一つのブランドだったのですね。現在の「東京銀座〇〇」のように。でもこの地はかつて沼地で、茅もたくさん茂っていて茅を売る業者がたくさんあったそうです。茅葺屋根の時代…。

2
水天宮

文政元年、久留米藩有馬家上屋敷内に祀られていた水天宮は、人々の信仰篤く、塀越しにお賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。そこで藩主は毎月5日に限り屋敷の門を開き、人々の参詣を許しました。そのことから「なさけありまの水天宮」という地口が流行語となりました。

2
水天宮(重森の「人形焼」)

水天宮の参拝土産と言えば水天宮交差点角にある「重森永信堂」。人形焼で有名な店です。大正6年、初代が人形町に創業。江戸っ子好みでギシギシとした甘さの「こしあん」入りの人形焼は七種類、それぞれ七福神の顔を模しています。1日の売り上げは多いときで約1万個!

3
親子丼発祥の店「玉ひで」

創業宝暦10年(1875年)を誇る軍鶏(しゃも)の店だった「玉ひで」。明治20年ごろ、鳥すきの〆に、肉と割下を卵でとじた「親子煮」を注文するお客様がいました。明治24年、この親子煮をご飯の上に乗せ、一品料理としたのが親子丼の発祥です。でも当時は、つゆかけご飯を店で供することは敬遠されていたので、兜町や当時日本橋にあった魚河岸へ出前用として人気を博しました。

4
甘酒横丁

人形町と浜町を結ぶ商店街「甘酒横丁」。明治時代、人形町側の入り口に「尾張屋」という甘酒屋があったのでこの名がつきました。人形町に当時あった寄席や明治座の見物客で街は混雑していたそうです。

4
甘酒横丁(とうふの双葉)

創業明治40年。水天宮、明治座帰りのお客様に「がんものパック入り」を考案、大好評でした。もちろんとうふも大人気。浜町をはじめ多くの料亭などへ配達もしていました。

4
甘酒横丁(志乃多寿司本店)

歌舞伎「葛の葉 子別れ」に出てくる「信田の森」にちなんだ志乃多寿司本店。いなり寿司の有名店です。いなり寿司は、江戸時代、庶民の間に「2口で食べられる」と大人気のファストフードでした。明治維新で職を奪われた武士が始めた、意地をこめた伝統の味。

5
明治座

明治6年以来、日本橋明治座は銀座歌舞伎座、新橋演舞場、お堀端帝劇などともに東京を代表する劇場として親しまれてきました。初期には焼失と再建を繰り返し、名称も様々変わりましたが、明治26年、初代市川左団次が座元となり「明治座」と改称しました。きょうも全国から観光バスで来場客が訪れています。

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清洲橋

東京を代表する川「隅田川」にかかる国の重要文化財「清洲橋」。下流にある同じく重要文化財の「永代橋」同様、関東大震災の復興のシンボルとして女性の優美なつり橋のイメージを川面に映しています。ライトアップは女性を意識してかピンク色です。

7
清澄庭園

清洲橋を渡ると拡がる清澄庭園。豪商紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と考えられています。明治11年、三菱財閥の岩崎弥太郎が買い取り庭園を造成。隅田川の水を大きく引き込む回遊式築山林泉庭園として完成。関東大震災では2万人の命を救いました。

8
深川江戸資料館

ゴールは、「深川江戸資料館」で江戸下町の人々の暮らしぶりを見てみましょう。天保年間の深川佐賀町の街並みを実物大で再現しています。火の見櫓をはじめ、大店(おおだな)「多田屋」、水茶屋、船宿、そして長屋の路地など、往時の庶民のたたずまいが時代劇さながらよくわかります。

遠方からお越しの方